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「私」は死ぬことができない.死者は,自分が死んだことを知らない.がゆえに,死を死なしめなくてはならない.死が死ぬことを虚構として捏造しなくてはならない.死を完了させなくてはならない.葬礼とは,単に死者の死を「飲み込めない」周囲の人々の慰めのためだけにあるのではない.それは死を死なしめるためにあるのだ.そう,誰のものでもない誰かが死んだ,その暴露された非人称の死を,彼女に,彼に,送り返してやること.おまえは死んだ,と言うこと.おまえの死は「われわれ」が看取り引き受けた,死んだのはあの灰色の中性の空間のなかに溶け込む誰かではなく,確かにおまえだ,と言うこと.死を死なしめること──これが宗教が,「われわれが宗教と呼ぶもの」が担ってきた絶対的な要請である.宗教とは,死の完遂の装置を含むのだ.その死の完遂の「フィクション」のために,膨大な儀礼のための図案や言葉,仕草や祈りが案出されてきたではないか.そう,死を死なしめるための手妻を含まない宗教は存在しない.その永劫とも思われる長きあいだにわたって,葬送という儀礼は反復されてきた.言葉の,イメージの,歌の,ダンスの,衣服の,調理の,ありとあらゆる創意の果実がそこに惜しげもなく投入されてきた.その反復の強固さこそが,「われわれが宗教と呼んできたもの」を下支えする主石なのだ.(…)
無論,宗教的な葬礼を拒み,自然葬や散骨を望む人々も増えてきた.しかし,そのことは事態を何も変えはしない.そこにあるのは,儀礼の不滅性であり,その更新の創意であり,賭けられた課題の,この主石の重さだけだ.宗教学者たちが,このことを指して「死の個人化」などと言ったりするのは,端的な誤りだ.葬礼とは,はじめから「死の個人化」なのだから.この死,この不確定の死を,彼女の死として,彼の死として,認証し送り返してやること.この務めの真摯さを,疑い得る者がいるだろうか.そして,この務めのための虚構の手妻が,「表象」と呼ばれるものである.
— 佐々木中,第一部 ジャック・ラカン,大他者の享楽の非神学/括弧 表象と死体──ハイデガー・ブランショ・ギンズブルグ/第三〇節 死体・表象・人形『定本 夜戦と永遠』
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物語は主人公の母親の死から始まる.「今日母が死んだ.あるいは,昨日かも知れない.私には分からない」というこの冒頭の一節をほとんど世界中の人々が憑かれたように繰り返した.この導入のことばがこれほど広く人口に膾炙したのは,死を世俗の用語法で語ることを拒絶し,死の無意味性を,その無意味性を毀損することなく維持しようとした主人公の法外な欲望が,第二次世界大戦後の(それは七千万人という空前の戦死者の弔いが喫緊の霊的課題であった時期である)人々にとっておそらく想像以上に切実なものだったからである.
主人公が冒頭でもらす感懐が,『異邦人』という題名を持つこの小説の基本的なねらいをそのまま語っている.
まだ,母が死んだような気がしない.埋葬が終われば,逆に,母の死は公共的な出来事になり,万事はもっと公式的な様子になってしまうのだろう.(Camus, ‘L’Étranger’, op.cit., p.1127)
主人公は母の死を「公共的な出来事」にすること,それが「公式的な様子」をまとうことを拒否する.あたかも母がまだ死んでいないかのように主人公はふるまう.葬儀の後,海水浴にゆき,喜劇映画を見て笑い,女友達をベッドに誘う.その「非人情」はやがて彼が巻き込まれた傷害致死事件の審理において,彼を極刑に処すことを望む検事の口から,主人公の恐るべき「怪物性」の証拠として語られることになる.検事は告げる.この男に情状酌量は無用である,なぜなら「この男の内面に見い出される空虚が裂け目となって,社会全体がそこに崩落してゆきかねない」からである.(Ibid., p.1197)
検事の告発はただしく問題の本質を衝いている.『異邦人』の主人公ムルソーはこの社会の片隅に「存在に感染していない死」がありうることをひとり実証しようとして,存在のエコノミーの圧倒的な大気圧によって押し潰される.それはムルソーの試みがそれだけ危険なものであったことを例示している.
主人公にとって,母の死を正しく弔うことは,そこからすべての存在論的な意味を剥ぎ取り,死の純粋な無意味性を毀損することなく保持することにあった.それが真の服喪であると主人公は直観している.無反省的に生きる人々がするように,死をありきたりの出来事に同定し,墓を立て,涙ぐみ,因習的な服喪のふるまいをなぞることは,死者を間主観性の境位に送り込み,そこで「死者として生きる」こと(つまり,生者の側が死者に「用事」があるときには,いつでも「呼び出し可能」な状態に「待たせておく」こと)を強いること,死者に煉獄の劫罰を与えることである.
レヴィナスは「死者を弔う」ことに第二次世界大戦からあとの思想的営為を捧げた.「弔う」とは,言い換えれば「死者をして死なしめる」ことである.
「死者をして死なしめる」ために生者がなさねばならぬことは,死者たちを決して「存在論の語法」において語らないという法外な禁欲である.というのは,死者たちは存在論の語法で語られる限り,「ここ」にいないがゆえに,いくらでも「ここで」利用可能なものになるからである.
存在論の世界においては,「死者たち」は死ぬことが許されない.「死者たち」は生者たち(…)によって「使役」される.(…)
歴史が教えるように,これまでのほとんどすべての粛正と排外主義は,「死者の遺言執行人」,「非人道的迫害の証人」を自称する人々によって担われてきた.
大戦間期のヨーロッパにおいてファシズムが賦活されたのは,何よりもまず「第一次世界大戦の死者たち」をどう弔うかという問いに,多くの人々が存在論の語法をもって答えようとしたからである.そして,今なお,「死者の遺言執行」を大義に掲げる人々が,世界の各地で民族対立,宗教対立,迫害と差別,テロルと報復の,終わりのない暴力連鎖を生み続けていることはここに繰り返すまでもない.
— 内田樹,第四章 死者の切迫/5 死者をして死なしめよ『他者と死者』
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『獣人』の核心は,主要人物の死の本能,すなわち,機関士ジャック・ランチエの脳の裂け目である.若い男であるランチエは,死の本能があらゆる貪欲に変装する次第,〈死の観念〉があらゆる固定観念に変装する次第,大遺伝[生殖質:死の本能(裂け目)]から小遺伝[体質:本能]に変装する次第を強く予感しているので,ランチエは,初めに女性を,さらに葡萄酒と貨幣を,また合法的に抱けるはずの野心も遠ざけている.ランチエは本能を放棄した.彼の唯一の対象は機械である.彼の知るところでは,裂け目は,あらゆる本能に死を導入し,本能の内で本能を通してその労働を継続する.そして,彼の知るところでは,一切の本能の起源においては,あるいは,一切の本能の果てにおいては,殺すことが眼目になるし,たぶん,殺されることも眼目になる.ところが,裂け目の深い沈黙に対抗してランチエが自ら守る沈黙は,一撃で破られてしまう.ランチエは,通過する列車の中での殺害の一瞬を閃光のごとく見てしまうし,犠牲者が線路に投げられるのを見てしまう.彼は殺害者が誰かを見抜いてしまう.ルボーと妻のセヴリーヌである.そして,ランチエがセヴリーヌを愛し始めて本能の領域を再び見出すと同時に,死がランチエの内で氾濫してくる.その愛は,死からやって来て,死へと帰るはずのものであるからである.
ルボーの犯罪から出発して,同一化と反復のシステムが展開し,これが書物のリズムを作っていく.先ず,ランチエが直接的に犯罪者に同一化する.「奴が,短刀を握るのがちらりと見えたあの男が,あえてやったのだ.ああ,臆病じゃない,最後には満足する,短刀を差し込む.十年来その切望に苦悶したはずの奴が」.ルボーの方は,嫉妬から裁判長を殺した.裁判長は,少女のセヴリーヌを犯し,この汚された女性をルボーと結婚させたとわかったからである.しかし,犯罪の後になって,ある仕方で,ルボーは裁判長に同一化する.今度は,ルボーが,ランチエに,汚れて罪のある女性を与える.そして,ランチエがセヴリーヌを愛し始めるのは,彼女が犯罪に加担したからである.彼女は「ランチエの肉体が見る夢のようなものであった」.こうして,三重の凪が生産される.ルボー夫妻の無気力な凪,ランチエに対する愛の中で自分の無垢を再び見出すセヴリーヌの凪,そして,とりわけ,セヴリーヌとともに本能の領分を再び見出し裂け目を埋めたと想像するランチエの凪.ランチエの信ずるところでは,ランチエは,彼女を,人を殺した彼女を殺すことを欲望しないだろう(「彼女を所有するのは大きな魅力だった.彼女は彼を癒した」).しかし,既に,凪に続いて,異なるテンポで,三つの脱組織化がやって来る.ルボーは,犯罪以来,本能の対象として,セヴリーヌに代えてアルコールを取っている.セヴリーヌは,無垢を返してくれる本能的な愛を見出したが,明確に自白する欲求をその愛に混入せざるをえない.彼女の愛人はすべてを見抜いていたのだが.そして,セヴリーヌがランチエを待つ場面は,犯罪の前のルボーがセヴリーヌを待つ場面と正確に同じであるのだが,そこで彼女はすべてを愛人に語る.彼女は詳細に自白する.彼女の欲望を死の想起の内で沈殿させようとするわけである(「欲望の震えが,彼女の内に戻ってきた死の震えの中で消失した」).自由に,彼女は,犯罪をランチエに自白する.かつて,彼女は,強制されて,裁判長との関係をルボーに自白して,これが犯罪を挑発したわけであった.そして,彼女は,自ら立ち上げてしまった死のイマージュをルボーに投射し,ランチエをルボー殺しへと仕向けていくことによってしか,その死のイマージュを祓って逸らすことができない(「ランチエは,自分が握った短刀がルボーの喉を突くのを見た.ルボーが裁判長を突いたごとくに……」).
ランチエはと言えば,セヴリーヌの自白は彼に何も新たなことは明かさなかった.むしろ彼を恐怖させる.彼女は話すべきではなかったのだ.彼が愛した女性,自己の内に死のイマージュを包み込んでいるが故に彼にとっては「聖化」されていた女性は,自白することで,また,別の可能な犠牲者を指示することで,自己の力能を失ってしまう.ランチエはルボーを殺すには到らない.彼は,本能の対象しか殺せないだろうと知っている.ここにはパラドックス的な状況がある.ランチエの周りの全員(ルボー,セヴリーヌ,ミザール,フロール)は別の本能から引き出される理由をもって殺しているが,ランチエは殺すに到らぬにしても純粋な死の本能を抱えている.この状況を解きほぐすのは,セヴリーヌの殺害以外にはありえなくなる.ランチエは思い知らされる.本能の声は彼を欺いていた.セヴリーヌに対する「本能的」な愛は,外見的に裂け目を埋めただけである.本能の雑音は,沈黙する〈死の本能〉を一瞬だけ覆い隠したにすぎない.また,小遺伝が大遺伝を再び見出し,あらゆる本能が裂け目に帰るために,殺す必要があるのはセヴリーヌである.「土地を所有するように,死せる彼女を持つこと」.「裁判長に対するのと同じ一突きで,同じ場所を,同じ激怒で……そして,二つの殺害は結び付いた.一方は他方の論理ではなかったか」.セヴリーヌは身近に危険を感ずる.彼女はそれを「法廷内の柵」と解する.ルボーがいるせいで,自分とランチエの間に置かれた障害物と解する.しかしながら,危険は,二人の間にある柵ではなく,ランチエの脳の中の裂け目–蜘蛛,沈黙の労働である.そして,セヴリーヌ殺害後,ランチエは悔恨することはないだろう.健康,健康な身体に変わりはない.「彼はこれほど調子のよいことはなかった.悔恨はない.風は鎮まった.幸福な大いなる平和」,「消された記憶.平衡状態の器官.完全な健康の器官」.しかし,正確に言うなら,この健康は,身体が病気になる場合や身体がアルコールや別の本能によって浸食される場合よりも,人を愚弄するものである.この穏やかな身体全体,この健康な身体は,裂け目のための豊かな大地,蜘蛛のための栄養分以外の何ものでもない.その身体は他の女性を殺す欲求を持つことであろう.全き健康をもって,「生きることは終わった.彼の前には,深い夜,果てしない絶望だけがあった.そこへ彼は逃げた」.そして,古くからの友人のペクーが,ランチエを列車から落とそうとするとき,ランチエの身体は抵抗し,ランチエは反射運動を起こし保存本能を発揮しペクーと争うのだが,それらは人を愚弄する反応である.実際,その反応において,ランチエは,自殺する場合よりも明確に,〈大きな本能〉へと差し出され,ペクーとともに共通の死へと連れ去られる.
— ジル・ドゥルーズ,付録/Ⅱ 幻影と現代文学/Ⅲ ゾラと裂け目/人間の獣『意味の論理学』(小泉義之訳)
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ピラミッドから三,四百メートルほど離れた場所で,わたしは屈みこんで一握りの砂をつかんだ.少しばかり遠くに移動して静かにそれをこぼし,小声で呟いた.「わたしはサハラ砂漠の姿を変えようとしている」.それはごく些細な出来事であったが,この気の利かない言葉も正鵠を射ており,これを口にするために自分の全生涯は必要とされたのだ,とわたしは思った.あの瞬間の記憶は,わたしのエジプト滞在でもっとも重みのあるものの一つであった.
— ホルヘ・ルイス・ボルヘス,砂漠『アトラス―迷宮のボルヘス』(鼓宗訳)
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造形作品がここでは,フランシス・ピカビアがのちにその最良のイメージは「虚空のなかで向いあって吊るされている二枚の鏡である」というあの永遠の,ひとつの裂け目なのである.
— アンドレ・ブルトン,近代 魔術の危機/「大いなるあやかし」,眼の「錯覚」の不思議とその限界『魔術的芸術』(巖谷國士他訳)