May 08
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桜,いたましい,ハンドルを握るその女の髪の毛の頸筋の鎖骨の乳房の乳首の先端の五十億年前の青い星々の輝きの煌めきの炸裂の方位が狂つてゆく,いたましい,わたしたちの透きとほつた自動車が奇蹟的な感傷的な絶望的なスピイドで疾走し濃さと熱さの異なる闇と闇との間のうすつぺらな境界面を滑り落ちてゆく,両側から差しかけられた満開の桜の花のアヽチがどこまでも連なる淡い欲情の激しい欲情の燃えあがる欲情のトンネルの傾斜を目覚めながらの夢のやうにくゞり抜けてゆく,いたましい,だがそれを信じることはできない,毒々しい橙と黒の斑模様が鮮やかに浮き出た胴体を淫靡にうねらせながら生臭い巨大な水蛇が皓々と満月の照る夜空の地平線近くをゆるやかに泳ぎ去つてゆく,それも信じることはできない,何日も何週間も流しつゞけた恋の涙の名残の雫がコンタクトレンズの凹みに溜まつてその微小な蜃気楼のなかで0・2ミリメエトルほどの灰色の犀が猛り狂ひ醜い角を振り立てゝわたしを威嚇してゐる,いたましい,いとほしい,青山墓地を南北に貫く桜並木のはら降りしきる花びらと同じ色をした女の乳首とわたしの探知機の指先との間に走る激越な稲妻の放電が一瞬あたりの空気を明るませる,風の闇の光の花のどこまでも続くどこまでもどこまでも続く眩暈の坂をくだつてゆくわたしたちの透きとほつた自動車のフロントガラスに始めは微かな罅がやがてだんと大きく深い亀裂が入り視界を徐々に搔き乱してゆく,それも,だがそれも,信じることはできない,いたましい,いたしい,フロントガラスが砕け散る,サイドヰンドウもリヤアヰンドウも砕け散りバツクミラアも砕け散りヘツドライトもコンタクトレンズもわたしたち自身の両眼の水晶体も粉々に砕け散りまつたくの盲目になつたわたしたちは透きとほつた破片と化したまゝもつともつと加速してゆく,積み重なつた花びらの結晶を冠にいたゞきさらに強くアクセルを踏みつける女ののけぞつた雪の咽喉のひつそりと静まりかへつた悲哀の野の真白な広がりをわたしはどうしても踏破し測量しをへられない,いたしい,いたはしい,砕け散つたわたしたちの透明な自動車は高樹町ランプから首都高速3号線にはひりこの蛸の都市が八方に伸ばした触手の一本をたどりながら電話線を伝はる声よりも速く疾走しつゞける,それも信じることができない,午前一時四十八分十六秒から午前一時四十八分十七秒までの一秒間,その一秒間だけとつくに何も見えなくなつてゐるはずのわたしの瞳の虹彩はありとあらゆる色のきらびやかなスペクトルの階段を狂ほしく駆けめぐるがもちろんそれも信じることはできない,いたましい,この冬大陸から飛来した浮気なヒシクイや荘重なマガンや賢明なツグミの産んだ卵の幾つかから微量の放射能が検出されたと陽気に報道する明後日の夕刊の新聞記事では鳥といふ字がすべて誤植で馬になつてゐる,だからそれもたうてい信じることはできない,黄金色の暈を帯びたわたしが虹でできた布でできた紙や光や髪や匂ひや水でできた伸び縮みするコントラバスであの度しがたく退屈なバツハの旋律を弾いてゐるところを昨夜の夢に見たと疾走しながらの愛戯のさなかきれに女が囁くのがいたましい,うとましい,しかしいとほしい,東急プラザに向かひあふ渋谷駅前広場には熱帯の巨大な火焰樹さながらタコノキさながら直立した幻滅の船の龍骨が空高く聳えひとたび燃えあがつて曲がりくねりねじくれたまゝ炭化し石化したやうな奇怪な姿をさらしわたしたちの四肢の速度の蕩けるやうな快楽のための美しい呪文をネオンサインで燦然と輝かせてゐる,いとはしい,いまはしい,いましい,公園通りの手前西部デパアトA館の砕け散つたガラス扉の向かうの化粧品売り場に犇めきあつてゐたすべての女たちの蕩けるやうな肉もまた一瞬のうちに蒸発しもうすでに骸骨だけになつて空しく弱々しく立ちつくしてゐる,いたましい,それもまた信じることはできない,わたしとわたしの愛する女は桜の花びらのやうな溶けだした氷柱の雫のやうなはらと舞ふ猫の毛のやうな軽く優しく無意味な幸福な絶望的な破片となつて風に乗り都市の触手を伝ひ国道246をさらに南西に闇の奥に暁とは逆の方角に生の果てに突つこんでゆく,透きとほつた砕け散つた自動車でわたしたちの情念の河の流れをどこまでもくだつてゆく,いたましい,いたましい,いたましい,しかしかうして書きつけたすべての言葉は遅かれ早かれ必ず実現するといふもつとも苛酷な復讐でもつてわたしにいたましく悦ばしく報いることだらう,そしてそれは,それだけは,信じることができるのだ


— 松浦寿輝,桜『吃水都市』
Oct 26
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 「私」は死ぬことができない.死者は,自分が死んだことを知らない.がゆえに,死を死なしめなくてはならない.死が死ぬことを虚構として捏造しなくてはならない.死を完了させなくてはならない.葬礼とは,単に死者の死を「飲み込めない」周囲の人々の慰めのためだけにあるのではない.それは死を死なしめるためにあるのだ.そう,誰のものでもない誰かが死んだ,その暴露された非人称の死を,彼女に,彼に,送り返してやること.おまえは死んだ,と言うこと.おまえの死は「われわれ」が看取り引き受けた,死んだのはあの灰色の中性の空間のなかに溶け込む誰かではなく,確かにおまえだ,と言うこと.死を死なしめること──これが宗教が,「われわれが宗教と呼ぶもの」が担ってきた絶対的な要請である.宗教とは,死の完遂の装置を含むのだ.その死の完遂の「フィクション」のために,膨大な儀礼のための図案や言葉,仕草や祈りが案出されてきたではないか.そう,死を死なしめるための手妻を含まない宗教は存在しない.その永劫とも思われる長きあいだにわたって,葬送という儀礼は反復されてきた.言葉の,イメージの,歌の,ダンスの,衣服の,調理の,ありとあらゆる創意の果実がそこに惜しげもなく投入されてきた.その反復の強固さこそが,「われわれが宗教と呼んできたもの」を下支えする主石おもいしなのだ.(…)
無論,宗教的な葬礼を拒み,自然葬や散骨を望む人々も増えてきた.しかし,そのことは事態を何も変えはしない.そこにあるのは,儀礼の不滅性であり,その更新の創意であり,賭けられた課題の,この主石の重さだけだ.宗教学者たちが,このことを指して「死の個人化」などと言ったりするのは,端的な誤りだ.葬礼とは,はじめから「死の個人化」なのだから.この死,この不確定の死を,彼女の死として,彼の死として,認証し送り返してやること.この務めの真摯さを,疑い得る者がいるだろうか.そして,この務めのための虚構の手妻が,「表象」と呼ばれるものである


— 佐々木中,第一部 ジャック・ラカン,大他者の享楽の非神学/括弧 表象と死体──ハイデガー・ブランショ・ギンズブルグ/第三〇節 死体・表象・人形『定本 夜戦と永遠』
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 物語は主人公の母親の死から始まる.「今日母が死んだ.あるいは,昨日かも知れない.私には分からない」というこの冒頭の一節をほとんど世界中の人々が憑かれたように繰り返した.この導入のことばがこれほど広く人口に膾炙したのは,死を世俗の用語法で語ることを拒絶し,死の無意味性を,その無意味性を毀損することなく維持しようとした主人公の法外な欲望が,第二次世界大戦後の(それは七千万人という空前の戦死者の弔いが喫緊の霊的課題であった時期である)人々にとっておそらく想像以上に切実なものだったからである.
 主人公が冒頭でもらす感懐が,『異邦人』という題名を持つこの小説の基本的なねらいをそのまま語っている.

 まだ,母が死んだような気がしない.埋葬が終われば,逆に,母の死は公共的な出来事になり,万事はもっと公式的な様子になってしまうのだろう.(Camus, ‘L’Étranger’, op.cit., p.1127)

 主人公は母の死を「公共的な出来事」にすること,それが「公式的な様子」をまとうことを拒否する.あたかも母がまだ死んでいないかのように主人公はふるまう.葬儀の後,海水浴にゆき,喜劇映画を見て笑い,女友達をベッドに誘う.その「非人情」はやがて彼が巻き込まれた傷害致死事件の審理において,彼を極刑に処すことを望む検事の口から,主人公の恐るべき「怪物性」の証拠として語られることになる.検事は告げる.この男に情状酌量は無用である,なぜなら「この男の内面に見い出される空虚が裂け目となって,社会全体がそこに崩落してゆきかねない」からである.(Ibid., p.1197)
 検事の告発はただしく問題の本質を衝いている.『異邦人』の主人公ムルソーはこの社会の片隅に「存在に感染していない死」がありうることをひとり実証しようとして,存在のエコノミーの圧倒的な大気圧によって押し潰される.それはムルソーの試みがそれだけ危険なものであったことを例示している.
 主人公にとって,母の死を正しく弔うことは,そこからすべての存在論的な意味を剥ぎ取り,死の純粋な無意味性を毀損することなく保持することにあった.それが真の服喪であると主人公は直観している.無反省的に生きる人々がするように,死をありきたりの出来事に同定し,墓を立て,涙ぐみ,因習的な服喪のふるまいをなぞることは,死者を間主観性の境位に送り込み,そこで「死者として生きる」こと(つまり,生者の側が死者に「用事」があるときには,いつでも「呼び出し可能」な状態に「待たせておく」こと)を強いること,死者に煉獄の劫罰を与えることである.

 レヴィナスは「死者を弔う」ことに第二次世界大戦からあとの思想的営為を捧げた.「弔う」とは,言い換えれば「死者をして死なしめる」ことである.
 「死者をして死なしめる」ために生者がなさねばならぬことは,死者たちを決して「存在論の語法」において語らないという法外な禁欲である.というのは,死者たちは存在論の語法で語られる限り,「ここ」にいないがゆえに,いくらでも「ここで」利用可能なものになるからである.
 存在論の世界においては,「死者たち」は死ぬことが許されない.「死者たち」は生者たち(…)によって「使役」される.(…)
 歴史が教えるように,これまでのほとんどすべての粛正と排外主義は,「死者の遺言執行人」,「非人道的迫害の証人」を自称する人々によって担われてきた.
 大戦間期のヨーロッパにおいてファシズムが賦活されたのは,何よりもまず「第一次世界大戦の死者たち」をどう弔うかという問いに,多くの人々が存在論の語法をもって答えようとしたからである.そして,今なお,「死者の遺言執行」を大義に掲げる人々が,世界の各地で民族対立,宗教対立,迫害と差別,テロルと報復の,終わりのない暴力連鎖を生み続けていることはここに繰り返すまでもない.



— 内田樹,第四章 死者の切迫/5 死者をして死なしめよ『他者と死者』
Sep 27
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 『獣人』の核心は,主要人物の死の本能,すなわち,機関士ジャック・ランチエの脳の裂け目である.若い男であるランチエは,死の本能があらゆる貪欲に変装する次第,〈死の観念〉があらゆる固定観念に変装する次第,大遺伝[生殖質:死の本能(裂け目)]から小遺伝[体質:本能]に変装する次第を強く予感しているので,ランチエは,初めに女性を,さらに葡萄酒と貨幣を,また合法的に抱けるはずの野心も遠ざけている.ランチエは本能を放棄した.彼の唯一の対象は機械である.彼の知るところでは,裂け目は,あらゆる本能に死を導入し,本能の内で本能を通してその労働を継続する.そして,彼の知るところでは,一切の本能の起源においては,あるいは,一切の本能の果てにおいては,殺すことが眼目になるし,たぶん,殺されることも眼目になる.ところが,裂け目の深い沈黙に対抗してランチエが自ら守る沈黙は,一撃で破られてしまう.ランチエは,通過する列車の中での殺害の一瞬を閃光のごとく見てしまうし,犠牲者が線路に投げられるのを見てしまう.彼は殺害者が誰かを見抜いてしまう.ルボーと妻のセヴリーヌである.そして,ランチエがセヴリーヌを愛し始めて本能の領域を再び見出すと同時に,死がランチエの内で氾濫してくる.その愛は,死からやって来て,死へと帰るはずのものであるからである.
 ルボーの犯罪から出発して,同一化と反復のシステムが展開し,これが書物のリズムを作っていく.先ず,ランチエが直接的に犯罪者に同一化する.「奴が,短刀を握るのがちらりと見えたあの男が,あえてやったのだ.ああ,臆病じゃない,最後には満足する,短刀を差し込む.十年来その切望に苦悶したはずの奴が」.ルボーの方は,嫉妬から裁判長を殺した.裁判長は,少女のセヴリーヌを犯し,この汚された女性をルボーと結婚させたとわかったからである.しかし,犯罪の後になって,ある仕方で,ルボーは裁判長に同一化する.今度は,ルボーが,ランチエに,汚れて罪のある女性を与える.そして,ランチエがセヴリーヌを愛し始めるのは,彼女が犯罪に加担したからである.彼女は「ランチエの肉体が見る夢のようなものであった」.こうして,三重の凪が生産される.ルボー夫妻の無気力な凪,ランチエに対する愛の中で自分の無垢を再び見出すセヴリーヌの凪,そして,とりわけ,セヴリーヌとともに本能の領分を再び見出し裂け目を埋めたと想像するランチエの凪.ランチエの信ずるところでは,ランチエは,彼女を,人を殺した彼女を殺すことを欲望しないだろう(「彼女を所有するのは大きな魅力だった.彼女は彼を癒した」).しかし,既に,凪に続いて,異なるテンポで,三つの脱組織化がやって来る.ルボーは,犯罪以来,本能の対象として,セヴリーヌに代えてアルコールを取っている.セヴリーヌは,無垢を返してくれる本能的な愛を見出したが,明確に自白する欲求をその愛に混入せざるをえない.彼女の愛人はすべてを見抜いていたのだが.そして,セヴリーヌがランチエを待つ場面は,犯罪の前のルボーがセヴリーヌを待つ場面と正確に同じであるのだが,そこで彼女はすべてを愛人に語る.彼女は詳細に自白する.彼女の欲望を死の想起の内で沈殿させようとするわけである(「欲望の震えが,彼女の内に戻ってきた死の震えの中で消失した」).自由に,彼女は,犯罪をランチエに自白する.かつて,彼女は,強制されて,裁判長との関係をルボーに自白して,これが犯罪を挑発したわけであった.そして,彼女は,自ら立ち上げてしまった死のイマージュをルボーに投射し,ランチエをルボー殺しへと仕向けていくことによってしか,その死のイマージュを祓って逸らすことができない(「ランチエは,自分が握った短刀がルボーの喉を突くのを見た.ルボーが裁判長を突いたごとくに……」).
 ランチエはと言えば,セヴリーヌの自白は彼に何も新たなことは明かさなかった.むしろ彼を恐怖させる.彼女は話すべきではなかったのだ.彼が愛した女性,自己の内に死のイマージュを包み込んでいるが故に彼にとっては「聖化」されていた女性は,自白することで,また,別の可能な犠牲者を指示することで,自己の力能を失ってしまう.ランチエはルボーを殺すには到らない.彼は,本能の対象しか殺せないだろうと知っている.ここにはパラドックス的な状況がある.ランチエの周りの全員(ルボー,セヴリーヌ,ミザール,フロール)は別の本能から引き出される理由をもって殺しているが,ランチエは殺すに到らぬにしても純粋な死の本能を抱えている.この状況を解きほぐすのは,セヴリーヌの殺害以外にはありえなくなる.ランチエは思い知らされる.本能の声は彼を欺いていた.セヴリーヌに対する「本能的」な愛は,外見的に裂け目を埋めただけである.本能の雑音は,沈黙する〈死の本能〉を一瞬だけ覆い隠したにすぎない.また,小遺伝が大遺伝を再び見出し,あらゆる本能が裂け目に帰るために,殺す必要があるのはセヴリーヌである.「土地を所有するように,死せる彼女を持つこと」.「裁判長に対するのと同じ一突きで,同じ場所を,同じ激怒で……そして,二つの殺害は結び付いた.一方は他方の論理ではなかったか」.セヴリーヌは身近に危険を感ずる.彼女はそれを「法廷内の柵」と解する.ルボーがいるせいで,自分とランチエの間に置かれた障害物と解する.しかしながら,危険は,二人の間にある柵ではなく,ランチエの脳の中の裂け目–蜘蛛,沈黙の労働である.そして,セヴリーヌ殺害後,ランチエは悔恨することはないだろう.健康,健康な身体に変わりはない.「彼はこれほど調子のよいことはなかった.悔恨はない.風は鎮まった.幸福な大いなる平和」,「消された記憶.平衡状態の器官.完全な健康の器官」.しかし,正確に言うなら,この健康は,身体が病気になる場合や身体がアルコールや別の本能によって浸食される場合よりも,人を愚弄するものである.この穏やかな身体全体,この健康な身体は,裂け目のための豊かな大地,蜘蛛のための栄養分以外の何ものでもない.その身体は他の女性を殺す欲求を持つことであろう.全き健康をもって,「生きることは終わった.彼の前には,深い夜,果てしない絶望だけがあった.そこへ彼は逃げた」.そして,古くからの友人のペクーが,ランチエを列車から落とそうとするとき,ランチエの身体は抵抗し,ランチエは反射運動を起こし保存本能を発揮しペクーと争うのだが,それらは人を愚弄する反応である.実際,その反応において,ランチエは,自殺する場合よりも明確に,〈大きな本能〉へと差し出され,ペクーとともに共通の死へと連れ去られる.


— ジル・ドゥルーズ,付録/Ⅱ 幻影と現代文学/Ⅲ ゾラと裂け目/人間の獣『意味の論理学』(小泉義之訳)
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 地震や津波も問題の解決として生じる現象だと言えるだろう.地震は複数の岩石のあいだに立てられた問題の解決であり,津波は褶曲し屹立した波のうちに立てられた問題の解決であり,どちらの場合にも潜勢的現実におけるポテンシャル・エネルギーの過飽和が現勢的現実における相転移というかたちで解消される.(…)
現在,事故を起こしている福島第一原発の原子炉群は,その現実のあからさまな二重性によって特徴づけられる.一方に,不安定から安定に向かっているとの発表や報道の対象となるような現勢的な現実がある.しかし,目に見える範囲にあって計測不可能な潜勢的現実がある.(…)潜勢的現実のレヴェルにおいて,政府や東電はたんに「不手際」なのではなくそもそも「情報」などいっさい有していない.また,目に見える相(フェイズ)として現象しないという意味でいわば純粋な「存在」としてある計測不可能な現実は,これと同時並行的に様々な相として目に見えるかたちで現象する計測可能な現実から帰納できるものでもない.
 原発事故は(…)準安定状態の解決として「起きた」のではなく,(…)準安定状態それ自体の持続として「起きている」.計測可能な範囲において不安定から安定へと漸進的に向かっているというのが仮に本当だとしても,原発事故の本質はそこにはなく,そうした現勢的現実の傍らにポテンシャル・エネルギーの過飽和がつねに維持されるということにこそ,すなわち,相転移が連続的な解として産出される傍らで問題が未解決のままにとどまり続けるという過剰にこそ存する.原発事故は準安定から準安定へと推移し続ける運動として「起きている」.
 過剰な力として存在する問題から解が連続的に現勢化されていく,問題の自己展開運動がある.原発事故について可能な対処は,問題の自己展開運動を「制御(コントロール)」することだけであり,問題の解決ではない.政府や東電が現在とっている放水などの対応,今後とることが予定されているとされる石棺などの対応は,あくまでも,潜勢力としての問題から解が現勢化されるその運動の制御であって,問題の解決ではなく,問題のペンディングですらない.問題はその過剰さにおいて消尽することがない.(…)
 原発プロセスには始まりも終わりもなく,ただひたすら準安定から準安定への連続的な運動があるだけだ.そして運動のこの連続性において「事故」を発電や廃棄物処理から明確に区別するものなど何ひとつない.(…)
 一般的な意味での「原発事故」は,少なくとも原子力の民生利用(日本語環境では一般に「平和利用」とされる)が始まった一九五〇年代以降,我々が事故のただなかで生きてきたということ,我々の生きる現代社会が常態化した事故の飽くなき制御に基づいた社会であるということを改めてはっきりと告げる.問題の発生を例外状態としその解決を目指すということが主軸をなす社会,始まりと終わりの反復から産み出されるリズムに従って展開する社会は過去のものとなりつつある.今日では,つねに未解決にとどまる問題の過剰が常態となって我々の日常を構成し,準安定から準安定へとひたすら推移するその絶えざる自己展開運動をいかに制御し続けるかということが社会の主たる賭け金となっている.
 問題解決社会から問題制御社会へ,解の社会から問題の社会へ.福島第一原発の事故が起きているなかで多くの人がよりはっきりとしたかたちで実感することになったのは,実際,解決不可能な問題を突きつけられ,そのなかで日々暮らしていくほかないという現実だと言えるかもしれない.(…)
 原子力への電力政策の転換は,問題解決に立脚した統治モデルから問題制御に立脚した統治モデルへの移行というより大きな物語のなかに書き込まれるべき出来事だと言えるだろう.たとえば,米軍によるオサマ・ビン=ラディンの射殺によっても終止符が打たれたとは些かも言えないことを米政府自身はっきりと公言している「テロとの戦い」が原発事故あるいは原子力発電それ自体と同時代的であるのは,両者がともに問題制御に立脚した統治モデルの枠組みのなかにあるからだ.「テロとの戦い」で目指されるのは,誰もが知る通り,「テロリズム」なるものの根絶すなわち解決などではまるきりなく,あくまでも,「テロリズム」なる問題をその過剰な解決不可能性において維持すること,また,それによって準安定から準安定への連続的な運動のもとに社会全体を包摂することである.
 ジル・ドゥルーズによるあまりにも有名な議論,「規律訓練社会」から「コントロール社会(制御社会)」(一般には「管理社会」と訳される)への移行という議論をここで改めて想起してもよいかもしれない.(…)
 ドゥルーズは言う──「最も過酷なのはどの体制か,最も寛容なのはどの体制かなどと問うには及ばない.どの体制においても解放と隷属との対峙は等しくみられるのだから.」問題解決は規律訓練社会においてたんに支配や統治のモデルだっただけではなく解放のモデルでもあった.解放としての問題解決の最たる例は言うまでもなく革命だ.革命とは問題を解決すること,共有された解を実現することに他ならない.同じことは制御社会についても言われなければならない.問題制御としての解放,問題をその過剰において共有することによる解放とは何か.蜂起である.
 この意味でこそ,原発事故は「テロとの戦い」とだけでなく所謂「アラブの春」とも同時代なのだ.二〇一〇年一二月以来,チュニジアやエジプト,その他のアラブ諸国で起こっているのは革命ではなく蜂起だ(「ジャスミン革命」は正しくは「ジャスミン蜂起」と呼ばなければならない).北アフリカや中東で起きているのは,支配者がこれまで長きにわたり強要してきた解に対し民衆が新たな解を突きつけ,その実現を目指すといったことではない.支配者の強要する解を退けようとする民衆たちが共有しているのは新たな解ではなく問題なのだ.蜂起とはたんにレーニンやボリシェヴィキの不在を意味するだけではない.蜂起とは問題をそれとして生きることであり,準安定から準安定への絶えざる運動であり,ポテンシャル・エネルギーの尽き得ぬ過剰をそれとして肯定し続けることであり,マクロな記号(解)に収斂し得ないミクロな記号の内的共振(問題)であり,だからこそ蜂起は指導者や前衛党を知らないのだ.(…)
 革命の喜びは主としてそれが「起きた」ときに見出されるが,蜂起の喜びはそれが「起きている」ときに見出される.革命は喜びへのプロセスだが,蜂起はそれ自体で喜びのプロセスである.革命におけるすべての疲労は問題が解決されるときの喜びによって報われるが,蜂起においては問題を生き続けることによる疲労が喜びと一体化している.問題解決社会においては来るべき解放の喜びという約束のもとで疲労が不問に付されるが,問題制御社会においては解放の喜びを持続させる条件として疲労が前景化する.要するに,革命は疲れを知らないが,蜂起は疲れるということだ.我々が生きつつある蜂起期において蓄積するのはしかしながら疲労だけではない.放射線被曝量もまた蓄積してゆき,その蓄積が我々の身体と脳とに穿たれた「裂け目」を物理的によりいっそう深く埋め難いものとしていくことにもなるだろう.
 今日のデモが喜びの線であると同時に疲労の線でもあるのは,ただたんに(とりわけ日本において)道幅いっぱいに自由に広がることを許されず狭い路傍に押し込められて歩くことを強いられるからではない.解へと向かうデモ,不安定から安定へと向かうデモではなく,問題をそれとして生きるデモ,準安定から準安定へと進むデモだから,すなわち,その終着点が終止符ではなく中断符であり,始まりも終わりもないからだ.ドゥルーズはこれを「ヘビ」と呼び,始まりと終わりとによって画定された線分上にひょっこりと顔を出してはまた同様に画定された別の線分上に顔を出すかつての「モグラ」と区別した.ヘビは線分を知らず,デモと日常をいっさい区別しない.ヘビはまた地中での休息も知らず,疲労を蓄積させながらひたすら地表を這い続けるが,その地表には絶え間なく放射線が降り注いでいる.疲労と被曝の線,然り.しかしそれこそがまた,ヘビたちの,すなわち我々の解放の線,喜びの線なのであり,ヘビになる(蜂起する)とはこの問題を,どこまでも過剰な力としてのこの「裂け目」を生きることなのだ.


— 廣瀬純,原発から蜂起へ『思想としての3・11』(河出書房新社編集部編)



#crack-up
Sep 24
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ピラミッドから三,四百メートルほど離れた場所で,わたしは屈みこんで一握りの砂をつかんだ.少しばかり遠くに移動して静かにそれをこぼし,小声で呟いた.「わたしはサハラ砂漠の姿を変えようとしている」.それはごく些細な出来事であったが,この気の利かない言葉も正鵠を射ており,これを口にするために自分の全生涯は必要とされたのだ,とわたしは思った.あの瞬間の記憶は,わたしのエジプト滞在でもっとも重みのあるものの一つであった.


— ホルヘ・ルイス・ボルヘス,砂漠『アトラス―迷宮のボルヘス』(鼓宗訳)
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われわれはこの地球の住人だったとき,手を動かすことによってまわりの大気に振動をもたらしていました.……そしてその振動は無限に広がっていき,ついには地球の大気の各原子にまで伝わったものでした.またその各原子はそのときから,そして永遠に,手のそのただひとつの行為によって動きつづけることになったのです.


— エドガー・アラン・ポー,ゴダール「言葉の力」『ゴダール全評論・全発言Ⅲ』(奥村昭夫訳)



#causality
Sep 06
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「天動説なる仮説についての註解」というのが,アリストテレスの論駁者コペルニクスが,われわれの宇宙観を一変した原稿につけた臆病な表題である.一人のルネサンス人,ジョルダーノ・ブルーノにとって,天穹の崩壊は精神の解放であった.『聖灰日の晩餐』のなかで,彼は次のように言明する.世界は無限の原因の無限の結果であり,神はわれわれの近くにある,「なぜなら,われわれが自らのうちにある以上に,神はわれわれのなかに在るから」.彼はコペルニクス的空間を人類にむかって説明するための言葉を探し求め,ある有名なページのなかで次のように記す──「宇宙はすべてが中心である,あるいは宇宙の中心はいたるところにあり,周辺はどこにもない,とわれわれは確信をもって言うことができる.」(『原因,原理および一者について』Ⅴ)
 歓喜にうち顫えながら彼がそう書いたのは一五八四年のことであるが,そこには依然文芸復興の光が輝いている.しかし,それから七十年後には,その歓喜の火花は一つとして残っていず,人々は時間と空間のなかで,手がかりを失なって途方にくれた.未来と過去が無限であるなら,《いつ》は意味をもたなくなるだろうし,万物が無限にして無限小なるものから等距離であるならば,《どこ》も存在しなくなるだろう.誰もある特定の日,特定の場所には存在せず,誰も自分の顔の大きさを知らない.(…)
ブルーノにとって解放であった絶対空間が,パスカルにとっては迷宮になり,また深淵になる.彼は宇宙を悪み,神を崇めたいと思った.しかしその神は,彼が悪む宇宙以上に現実的な存在ではなかった.天空に口がきけないことを彼は口惜しく思った.彼はわれわれの境涯を,孤島に漂着した人々のそれになぞらえている.彼は物理的世界の絶えざる重圧を感じる.惑いと恐れと孤独を感じる.彼はその気持を次のように述べている──「自然は無限の球体である.その中心はいたるところにあり,周辺はどこにもない.」これはブランシュヴィック版の言葉であるが,原稿の消去とためらいを再現しているトゥルヌールの批判版(パリ,一九四一年)は,パスカルが最初は「恐ろしい」(effroyable)と書いたことを明らかにしている──「……恐ろしい球体である.その中心はいたるところにあり,周辺はどこにもない」.


— J. L. ボルヘス,パスカルの球体『続審問』(中村健二訳)



#blaise pascal
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たとえば今ここでカメラをどの方向にどう構えるかについては無数の選択が可能だし,位置もまた無限に変更が可能だ.このようにして宇宙全体が重なり合うカメラで埋め尽くされた様を想像せよ.すべての空間に密集した無限量のカメラが瞬間ごとにシャッターを切り続ける.これらすべてを包括して光と呼ぶ.
Dec 18
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ただ水の流れる音から
少しはずれた場所に
腰掛けるようにして並べられた
一揃えの耳だけが
通過している

交流しえない形の
消失できない時間を
ただ流れる水の音だけが
聞こえるために
繰り返されている

供花のように置かれた
一繫ぎの静寂が
鳴り止まない

あらゆるものが
素描された水の音であるならば
私でさえ失われていく

ただ耳を残して



— 広瀬大志,外耳『草虫観』



#eyes and ears
Oct 16
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造形作品がここでは,フランシス・ピカビアがのちにその最良のイメージは「虚空のなかで向いあって吊るされている二枚の鏡である」というあの永遠の,ひとつの裂け目なのである.


— アンドレ・ブルトン,近代 魔術の危機/「大いなるあやかし」,眼の「錯覚」の不思議とその限界『魔術的芸術』(巖谷國士他訳)
>
カメラが鏡に映ったカメラ自身を撮影する,それが究極の映画だろう.


— ジャン=リュック・ゴダール,映画的アトピア『The Collected Writings』(ロバート・スミッソン)



#infinity

#jean-luc godard
Aug 21
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裸の娘が貝殻に乗って現れるのを待つのではない.真夜中,岸辺にうちよせる波の煙と,波頭に目を凝らすのだ.それがぼくにとって,時が水から生まれるということなのである.


— ヨシフ・ブロツキー『ヴェネツィア・水の迷宮の夢』(金関寿夫訳)



#looking
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まるで絶え間なく過去のなかへ沈んでいくような気持ちだった.だが,あたりを見まわすと,彼女はこうして深い海のように層をなして重なる魂のさまざまの時期を横切って沈んでいきながらも,あたりの物たちの偶然なことを感じた.それは,物たちがいまでは偶然な存在に見えるということではなく,この外見がまるでこれらの物たちの確固とした一部であるかのように,まるで寿命が尽きてもひとつの顔から離れまいとする感情のように不自然に爪をつき立てて,物たちにすがりついているということだった.そして奇妙だった,まるで静かに流れる生起の糸の一部がいきなりほつれて横へ広がってしまったように,徐々にあらゆる顔とあらゆる物が偶然で瞬間的な現われの中で凝固してゆき,奇妙な秩序によってはすかいに結びつきあった.そして彼女ひとりが,揺らいで広がってしまった感覚をたずさえて,これらの顔と物の間を滑っていく,滑り落ちていく.


— ムージル『愛の完成』(古井由吉訳)
Aug 02
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ぼくの奥底には,まだこの世の光を見ていない塊のようなものがある.発せられていない言葉によって,ぼくがしなかった身振りの数々によって,ぼくにとって無縁なものすべて,不可能なものすべてによって,ぼくは形のない太洋の底にいまだに横たわっている.ぼくのおなじみの物体の数々とともに,ぼくはまだ出現していないものを住処としている.ぼくの中には,誕生前の混沌のこの天国,あるいはこの地獄から離れていない男がいる.そしてぼくの周囲の世界もまたこの空虚によって組み立てられている.建設されていない都市の数々があり,眼には見えない風景の数々がある.それがいつの日か現出することになる,そのことはわかっている.だが,いまこの瞬間,それは暗黒で描かれたヴィジョンにすぎぬ,身を潜めているのではなしに準備されつつあるヴィジョンだ.空虚はいつでも充たされるそなえができている.不在,忌むべき不在は,それが告知しているもののせいで,もうすでに一つの現存なのだ.暗黒の部屋,そこでは暗黒の物体や,暗い壁や,眼に見えない光の煌めきや,くすんだ色彩や,やがてやって来る運動などの数々が身を起こしている部屋.そこでは存在の力がまだ轟きを発しない暗黒の部屋,過去の中の未来がある暗黒の部屋.ここで生起しなかった世界が準備され,そしてはたらきかける世界は,まだ創造されていないものによって気づかぬほど微かに変形される.手持ちぶさたの沈黙よ,無為よ,物質の中核に隠された物質よ,ぼくはおまえたちから切り放たれていない.ぼくは,ぼくの奥底に,何一つ見えないもう一つの眼差のようなもの,古の空虚にぼくを結びつける異様でやさしいきずなを持っている.ぼくの生きた肉体という現実の中に,終わりなく続行されるあの創造のしるしを持っており,この創造は混迷をさぐって,明らかなもの,光り輝くものを迸らせる.


— ル・クレジオ『物質的恍惚』(豊崎光一訳)